ほたるの里
ブルブルブルン・・・ダダダダ・・・バルーン、バルーン・・・いかにもエンジンの音がとぎれそうな音が聞こえる。
その一台のバイクはゆっくりと三十キロに満たないであろうスピードで走ってきた。いわゆる、スクーターという代物だ。そしてその音は、町の誰もが知っている音で、この音がすると、町の人々はふり返り声をかけあっていく。
「やぁ、さっちゃん」
「あいよっ」
さっちゃんは首を少し振りながら応えていく。運転も余裕だよと見せるかのように、左手も上にあげて見せている。
「さっちゃん、いってらっしゃい」
「あいよっ」
人々が声をかける。楽しそうに、そのバイクがどんどん走ってゆく。ゆらゆらしながら、それでもどんどん走る。時々よろめきながら、それでも車と車の間を通行止めするかのように走っていく。
「さっちゃん、バーイバイ」
どこかの小さな子どもまで、声をかける。
さっちゃんの住んでいるこの町はおよそ人口三万人に満たない小さな町である。多くの自然に恵まれているので、老後をこの地でと移住してくる人たちは少なくない。都心にも近く、レジャー施設にも近い。
まわりを見れば山もある。そよそよと流れる川もある。そして広大な海が目の前に拡がっているのだ。ここは自然の中で戯れて暮らせる温泉郷。まるで天国の町と言ってもいいかも知れない。
美しく彩られた四季の木々、花々。野鳥がたくさん飛び交い、海岸ではきらめく太陽の光と波しぶきを映そうと人々で賑わっている。そんな風景が当たり前に飛び込んでくる。
海ではサーファー達が波乗りを楽しみ、釣り好きの漁船がしばし通りかかる。農家の野菜や果物が無人販売で売られ、あじの干物などあちらこちらで作られている。なんとなく、町の暖かさ、庶民さをほとほと感じる。
そういった中でも、さっちゃんの一番のお気に入りの場所は、千歳川を熱海方面に渡ってすぐの山を登っていったところだ。そこからの眺めは、本当にのんびりした町を見渡せる。ゆっくりと走る車、おしゃべりしながら歩く子どもたち。みんなゆっくりだ。まるで、スローモーションを見ているかのようである。さっちゃんは、夕方日没の頃よくそこへ行く。特に夜景になろうとする瞬間がたまらなくいいのだ。
春になれば軽快に歩く人々、今にでも踊り出しそうな木や花の彩りを見れる。海は穏やかで吹いてくる風はなんとなく安らぎを感じ、甘酸っぱいさわやかなみかんの花の香りはさわやかな春を感じる。
夏になれば、ワサワサと木のゆれの中に、たくさんのカブトムシやクワガタが飛んでくる。また、地平線へ目を向けると、夕焼けの美しさに酔いしれたりする。
秋になれば紅葉が見渡せ、野猿の親子が集団で歩いているのが見受けらる。
冬になればたちのぼる湯煙に浸ってみる。それだけで温泉浴をしているような温かさを感じたりする。また、あたり一面のみかんは色づきはじめ、そして、静かで冷たい海は冷静さを取り戻してくれる。
それぞれの季節を最も感じ安らぎを覚える場所が、ここの場所なのだ。もちろん、ここはさっちゃんだけの秘密場所である。だから家族もこの場所だけは知る由もない。さっちゃんはいつも、そこで一服しては帰ってくるのだ。
さっちゃんは少々浮かれながら、アクセルをふかすと風と共にダッシュした。ああ、なんてこんなにも風が気持ちよいのだろうと、バイクを走らせながら感じる。風との一体感、それがたまらなく好きだった。そして、磯の香の漂う、この町の自然の
香りが大好きである。
もう、乗り始めて十五年以上にもなるこのバイクは、さっちゃんの足である。買い換えて三台目のバイクだ。それでも幾度となく転んだせいか、傷だらけはもちろんのこと、最初の色がわからないほど、くすんで見える。だが、年齢と共に足は不自由になるばかりで、遠出さえできないのだから、何かに頼るしかない、それがこのバイクだった。
免許をとったのは四十歳も半ばになってからだった。そもそも、階段から転落したことがきっかけとなった。複雑骨折で一年ほど入院生活をしたあと、リハビリを終えて復帰しようとしたが、さすがに年齢にはかてないらしく、一気に弱くなっていった。まだ、そんな年齢ではないはずであるが、一年、また一年と体の中で故障が増えてゆくのだ。
まず、歩くのが困難になった。一人で歩いているのはまだしも、荷物さえ持つことができなかった。全然歩けないわけではなかったが、一キロも歩くと、もう、立っていられなくなるほどだった。
さっちゃんは、人の世話になるのは嫌いだった。世話をするのは、もちろん好きだが、誰かに甘えてしまう自分はとても情けなく思っていたのだ。颯爽と歩けない自分がはらだだしかった。だから、その後必死の猛勉強で、バイクの免許までとってみせたのだ。もちろん、家族は猛反対した。第一、四十も過ぎているおばさんに、今更免許などとられても、かえって危なっかしいというのだ。あれから、もう、四十年あまり・・・今年で八十五歳になる。まぁ、生まれ育ちは関西だから、性格はやはりきついのだろう。
バイクに乗るようになったさっちゃんは、とても人生観が変わった。いつでも、努力を忘れることがなくなった。そして、今日もこれからパソコン教室へ行く途中である。
本名は磯辺幸子と言うが、町の人たちは、さっちゃんのことを、磯辺さんとも、幸子さんとも言わなければ、決しておばあちゃんとは呼ばなかった。第一、おばあちゃんなどと言ったら、たちまち茶碗やらコップやらをを投げつけられるわという始末だ。でも、さっちゃんには、おばあちゃんよりもその言い方が一番似合っていたのかも知れない。
この歳でバイクに乗って、昼間は陶芸教室やら、カラオケ教室、パソコン教室やらとカルチャーに染まり、ネオンがつく頃には颯爽とパチンコ屋へ精を出し、くわえ煙草でパチンコの台を「この野郎っ、出ろ〜」と、け飛ばしているのは、もちろんいるはずもない。
そして、昔々・・・にこだわりもせず、時代の変わった生活にすっかり楽しんでいることができるのは、少しうらやましい限りだ。
嫌みのない性格なのか、人に好かれ、いつでもさっちゃんのところに人が集まってくる。そして何よりも、さっちゃんはこの町一番の情報網なのだ。小さな子ども達もみんなさっちゃんが大好きだった。あめやおかしをもらって、いつも楽しい話を聞かせてくれた。自分の夢も教えてくれた。さっちゃんは、本当はひとりぼっちが嫌いだったのだろう。人が集まる所へと出向き、出掛けなければ周りの人がやってくるそんな生活をしていた。
さっちゃんはパソコン教室まで時間があったので、公園で一服することにした。子ども達は、それぞれに自転車に乗ってみたり、滑り台や砂場遊びを楽しんでいる。時折、木にしがみついて、上り下りを楽しんでいる子どももいた。丁度、さくらんぼの白い花が咲き始めた頃である。その様子を見守りながら、よいこらしょと木陰のベンチへ腰をおろした。すると休むさま、たちまち子ども達が集まってきた。
「あっ、さっちゃん、さっちゃん」
「ああ、まなみちゃんとえ〜と、かなちゃんじゃっけ」
「わぁ、嬉しい。もう、名前覚えてくれたの」
「わっはっは・・・」
さっちゃんは、人の名前と顔は必ず一度で覚えられる。昔、小学校の先生をお産をする先生の変わりに三年ほどやったことがあって、名前を覚えるのは教師のまず基本だとよく言っていた。
「ねぇ、あやとりしているけど、どうしてもわからないのよ」
「そうけ、どれどれ、ほら、こうやって・・・」
それは、魔法の手品のようだった。とても速くぴっぴとやってしまうのだ。
「うわっ、すごーい、ほうきができた。また、帰ったら、おかあさんに見せてあげるね」
「ああ、そうじゃね」
さっちゃんの言葉は、とても八五歳とは言えないしゃべり方をする。頭のキレもまだまださえ続けている。指の運動をすると、ボケにくくなるとか聞くと、すぐさま待ったなしに飛びついていく。これから行くパソコン教室も、それがきっかけで始めたのだ。指を使って、頭を使って、結構インターネットなどと楽しんでいる。ちょっとした手紙などもパソコンで何とか作ってしまう。とにかく、時代に相応し、いつでもチャレンジ旺盛なさっちゃんなのだ。
さっちゃんは、とてもおいしそうに煙草の煙を吐き出すと、「よいしょ」と言って立ち上がった。
「さっちゃん、もう行っちゃうの?」
少女がそう言うと、
「またじゃ、でも今日は、今からお勉強にいくからさ」
「また、遊んでくれる?」
「そうじゃね・・・ああ、そうじゃ」
とバイクに積んであった蜜柑を取り出すと、少女に向かってほうり投げた。
「ほら、さっき畑でとってきたんじゃ。この時期は、清美の蜜柑は甘くておいしいんじゃ」
まるで、友達と話をしているかのように話すと、今にも止まりそうなエンジンをふかした。そして、かっこよくヘルメットをかぶって見せると、満足気にそこから去っていった。
「ラッタラッタラッラ〜」
鼻歌を歌いながら、同じ速度を保ちながら、スタスタと走っていく。
「さっちゃん、今日も元気だねえ」
「あいよっ」
通り過ぎていく車の運転手も、そんなさっちゃんを横目に声をかけあっていく。さっちゃんが道を通り過ぎる時間はだいたい決まっている。何時何分にどこを走って、どこを通り抜けて、いつどこにいるのか、町の人がみんな知っていたぐらいだ。逆にその時間にそこを通らないと、みんなが心配になるらしい。おかげで、さっちゃんのゆくところは、皆が集まってくるのだ。
十分も走ると、駅前にあるカルチャーセンターに着いた。今日は土曜日とあって、駅からゾロゾロと観光客も出てきた。大きな鞄を大事そうに抱えて、源頼朝を助けたと言われている土肥實平公の銅像前にしばらくいると、今度は京風庭園のポケットパークまで降りて記念撮影をしている。きっと旅館にでも泊まりに来たのだろうと目をやりながら、「ああ、わしゃも一辺でいいからいい風呂のある旅館で上膳据膳してみたいもんじゃ」とつぶやいた。さっちゃんは、もう一度、駅の方を見ながら、教科書をうしろの荷台から取り出すと、よっこらよっこら歩きはじめた。
「おはよ〜」
さっちゃんは、元気良く教室へ入っていった。この教室の中ではさっちゃんが一番高齢だ。何しろパソコンというのは、老人たちには悩みのタネでしかない。やっと覚えたと思ったら、もう次のことが始まっている。インターネットで買い物ができるというので、それは大変便利だねぇと思いきや購入してみたものの、時代の移り変わりにはついていけない。覚えたと思ったら、時代は次へと常に突っ走っているのだから、もうお手上げ状態でしかないのだ。それだけに、必死さも最初のうちだけで、今はひとつふたつを集中的に覚えている。だから、この教室にいる生徒も殆どがOLになろうとしている十代後半の子や五十代のコンピューター初心者ばかりになってしまう。
実を言うと、さっちゃんの一番の目的はゲームを覚えることだ。インターネットでオセロゲームを楽しんでやるのが一番いいようだ。つい最近までそれを「アメリカ版の碁」と勘違いしていたのはおかしな話だが。まぁ、手や指を使うというのはぼけにくくなるというのでいいのかも知れない。
授業を終えると、よっこらよっこらまたバイクに乗り、いつもの時間にいつもの場所を通り帰っていった。
「さっちゃん、今日は祭りだよう」
通りがかりに声をかけあう。そう言えば、駅にわんさかと人がいたようで、やたらと賑わいを見せていた。いつもは、学生や会社員の人ばかりがいそいそと駅を通り抜けるように歩いている。今日は、のんびりとした振る舞いの人で埋め尽くされていたのだ。
「あいよ。知ってるよ。わしゃが行かんとはじまんねぇじゃ」
「一升酒持ってくべえ、待っときな」
「あいよ」
今にも倒れそうな勢いで、それでもスタスタと道路の真ん中をゆっくりと走っていく。家に着くと、冷凍庫から出してきたウズワ(ソウダガツオ)をいそいそと焼き始めた。祭があるときは、必ず醤油で味を付けたおむすびとウズワという塩辛い焼き魚をほぐし、おむすびにに混ぜてこしらえる。鍛冶屋の神社の祭りで食べるのがここの風習なのだが、収穫の喜び、豊作への感謝、病気に罹らずすこやかに育つ願いが込められているとかで、さっちゃんは祭の度にこれをこしらえて、皆に配って歩くのが習慣なのだ。もちろん季節ものののウズワは、きちんと春から秋にかけて収穫し、冷凍保管しておく。丁度毎年、子どもたちによる海釣り大会もあり、大漁でさばききれなくなったウズワをいただきにいくこともある。
米も炊き終え、およそ五十コ分のおむすびをこしらえはじめる。家の人には、もう大変だからやめろまでとも言われるが、この歳になると、それが楽しみで生きているようなもので、さて、次の祭はいつだいつだとそればかりを考えている。
「さっちゃん。手伝いに来ましたよ。仲間に入れてくださいな」
隣に住む一恵おばさんも一緒に加わる。年齢層は離れているが、一恵おばさんにとっては、さっちゃんの元気は自分の元気だといつもさっちゃんに感謝し、おがんでさえいる。
「さっちゃん、酒持ってきたべ」
ひとつ真向かいの太平爺さんもよっこらよっこらやってくる。
「ああ、いい匂いがするなぁ」
太平爺さんはそう言いながら、縁側に腰掛けた。
「今日の祭は、雨も降らなくて何よりだべ」
「さぁさ、召し上がれ。まだまだ、作ってるから・・・」
一恵おばさんがお茶をお盆にのせながら、今作ったばかりのおむすびを持ってきた。
「ああ、祭だ。やっぱりさっちゃんのおむすびはうめえ。そういゃあ、松さんのところの娘が今日の御輿を担ぐらしいだべ」
「ほんとかね、そりゃあすごいこった」
「そうだべ、松さんのところの娘さんも偉くきれいになって、このめえ、梅の宴とかいうステージで踊ってただべ」
「そうそう、新聞にものってたのってた」
一恵おばさんも、今こしらえたおむすびを食べながら言う。
「芸者さんじゃろ。いつも、着物を着てしゃんとして歩いてるべ。髪もきれいに結っておるし」
「じゃ、芸者御輿で出るんか」
「そうだべ。あんなべっぴん他にはいねえべさ」
「確か、さゆりとかいうんじゃろ、いっぺん踊りも見てみたいもんじゃ」
「やっさで見たべ」
「ああ、そういやぁ、踊っとった。やっさやっさって。一番後ろにいとったな」
「そうだべ」
「さっちゃんは今年も教えにいくの。やっさ」
「そりゃそうじゃ。ちゃんと教えてやらにゃあ、でたらめばっか踊りおる」
「そうだべ、そうだべ」
ガハハと大きな声を出して、太平爺さんは笑った。
「でもよぉ、松さんも大変じゃねぇ。もう、一人で歩けんと。嫁さんも苦労するだべ」
「そうけ。わしゃ、一人で歩けんようになったら、生きてねぇじゃ」
「私もいやね、誰にも世話かけたくないね」
「そうだべ。それによぉ、小便もできんようになったら、情けねえ。おいらも嫁さんに面倒かけたくねぇし」
「そうじゃ、そうじゃ。だから元気が一番いいんじゃ」
「そういやぁ、よぉ、最近、吉さんはどうした?」
「ああ、あの人も、頭ぼけて入院したと」
「ぼけけ?」
「頭にいっちまったらしいじゃ」
「この前、パジャマで夜フラフラしとったの吉さんけ」
「そうじゃろうよ」
「なんだか、寂しくなるのお、ひとりひとり弱くなっていきおって」
「わたしら、動けて幸せなんじゃね」
「そうじゃ、そうじゃ」
そこへチュンチュンと一羽のすずめがやってきた。こぼれ落ちたおむすびの一粒を太平爺さんがあげる。
「ほらよ」
「そういゃあ、こないだ、すずめの巣が出来たって言ってただべ」
「ああ、あそこじゃ。あそこは暖かかいじゃ。チュンチュン飛んできおる。親がエサを持ってよく来るじゃ」
「鳥が巣を作るってことは、いい事が起きるっていうね」
「潮里が喜んで喜んで、毎日眺めてる」
「そりゃあ、よいこっちゃよいこっちゃ」
そうこうしているうちに、祭に行く仕度が出来た。大きな風呂敷にたくさんのおむすびを入れて、さっちゃんはそれを背負ってきた。
「さあ、でかけようさ」
今日の祭にはさすがにバイクというわけにはいかない。連れもいる。近くでタクシーをひろうと、さっちゃんたちはそれに乗り込んだ。
「ああ、さっちゃん。祭りかね」
タクシーの運転手がそう言うと、ドアーがパタリと閉まり、走り始めた。
「あんたは、行かんのかね」
「私は、その祭へ皆さんを連れて行くのが仕事ですからねぇ。以前、この仕事をする前に観にいったことありますけど、御輿は本当に見てても、気持ちがいいですねぇ。威勢もあって・・・。でもそれに温泉かけるのなんて、ここぐらいのもんじゃないですかね」
「そうじゃね、わしゃもあれをかけてやらんと、元気出ないね」
今日の祭は湯河原奥地で行われる湯かけまつりである。毎年5基の御輿が用意され、観光客がそれに温泉を威勢良くかけてやるというというのだ。5基のうちの1基は体験御輿で全国から御輿好きな人が担ぎにやってくる。御輿通にはたまらなく反響がある。
さっちゃんの孫にあたる真一は、手伝いで温泉を汲みにいっている。毎年帰ってくると、やれ腰が痛いなどと騒ぎたてる。そんな弱い者と叱るが、何度も温泉を運んではの作業はやはりこたえるようだ。
公園へ着くと、沢山の人で埋め尽くされているその場所へ、どかっと荷物を下ろした。あたりはイルミネーションで飾られ、一層賑わいを増している。やんちゃの子ども達は芝生坂で滑り台を楽しんでいた。
「ああ、重かった」
芝生へ腰を下ろし、たもとに手を入れ無造作に煙草を取り出した。フーッと一服すると、さすがに落ち着いたらしい、どこかの子どもを見付けると、
「ほら、もうすぐはじまるよ。はじまったら迷子にならないように気いつけな。そこら辺危ないからね。そうそう、僕・・・おむすび食べるか」
「ありがとう」
その子どもは一口そのおむすびをほおばると、キラキラした目で
「おいしいね。こんなおむすび食べたことないよ」
「そうかいそうかい」
「いいねぇ、何も汚れてないんじゃね」
ひっそりとつぶやいた。さっちゃんはとても満足げに笑って見せた。子どものキラキラした目はたまらなく好きだった。
あたりは観光客やら、地元の子どもたちやらで賑わっている。普段は、ひっそりと静まりかえっている公園であるが、この日ばかりは賑やかになる。
「ごきげんよう。さっちゃん」
さっちゃんの側を通り過ぎる人が声をかけていく。つかさずさっちゃんも、手を振ってみせる。次から次へと人がやってくる。
パアーン、パアーン。花火が鳴る。
「エッサ、エッサ」
どうやら祭が始まったようだ。一斉にお湯もかけられる。さっちゃんもよいしょと腰を上げてそれに参加した。
「ワッハッハ・・・」
「いやあ、楽しかった、次の祭はいつだべ」
祭から何日かたっての事である。さっちゃんの家にみんなが集まり、この間の湯かけ祭りの話にはなをさかせていた。
「へぇ、また今年も真ちゃんは動けないんだべ」
「そうじゃね。もう、若いもんが何言っとるんだか、腰が痛いとか言いおって仕事にすら行っておらん。丸二日も寝ておった」
「まあ、いいだべ、さっちゃん。裏方があっての祭だべ」
「甘ったれじゃ」
「さっちゃんが厳しすぎるんだべ。自分にも」
「そんなことねえ」
「そういやぁ、今度の日曜はシルバースポーツなんとかだべ」
「なんとかじゃなくて、大会じゃ。じゃあそうか、またおむすび作れるね」
「さっちゃんとこのひ孫娘も出るんだべ」
「潮里け?そうけ?来年学校だし、出るんじゃろ、きっと。じゃあ、少し鍛えとかなきゃいかんね。一緒に走るんじゃろ」
そこへ潮里があたりに響き渡る大きな声で保育園から元気良く帰ってきた。
潮里の名付け親はさっちゃんである。本名は磯辺潮里というが、磯で育った潮の香りが漂う娘としたらしい。さすがさっちゃんらしい名の付け方だ。
おかげで小麦色に日焼けした愛らしい娘である。笑うと白い歯がとてもさわやかに見える。うっすらと焼けたうす茶色の細い髪の毛も、潮風の中で輝いている。
「ただいま〜」
「ああ、おかえり」
「さっちゃん、おなかすいたよ。今日のおやつはなあに?」
「ああ。じゃがいものふかしたのができてるよ」
「わぁい」
「さあ、手をあらって召し上がれ。ちゃぶ台の上にあるから」
さっちゃんのつくるお手製のおやつは子どもたちに人気がある。定番はじゃがいもを塩ゆでしたものやふかしたもの。他には爆弾コロッケや焼きいも、パンのミミを集めて揚げたカリカリ棒。にんじんの皮煎餅、バナナチップスなどなど。さっちゃんの家にはポテトチップスなどのしゃれたおやつこそないが、それでも充分満足出来るおやつばかりだ。
「ああ、うまそうだ」
太平爺さんがそう言うとさっちゃんはよっこら立ち上がった。すると、ズキン・・・胃の奥から強い痛みがはしった。痛いっ・・・一瞬冷や汗が出て倒れそうになったが何とかこらえた。ああ、あとで胃薬でも飲んどきゃあ、大丈夫大丈夫・・・
さっちゃんは気を取り戻すと、奥の部屋へ行き、まだうっすら湯気のあがっている山積みされたふかしたじゃがいもを持ってきた。
その晩の事である。
「イタタタタタ・・・」
さっちゃんはしゃがみこむようにそこへ座り込んでしまった。同時にガタッとドアが揺れた。その音に気がついて、潮里がやってきた。
「どうしたの?さっちゃん」
「ああ、何でもないよ」
そう言って立とうとするが、立てそうにもなく、潮里は奥へ母親を呼びに走っていった。血相を変えて走ってきた潮里の母も、びっくりしてオロオロするばかりで、何することもできずにいた。まもなく、父親がやってくると
「さっちゃん、どうしたんだ」
「いや、何でもない」
「何でもないことあるか」
「本当じゃ、ただの痙攣じゃ」
さっちゃんの顔からは冷や汗が出始めている。顔も蒼白になりかけている。
「母さんっ、救急車っ」
それを聞いたさっちゃんは、ポロポロと泣きながら
「それだけはいやじゃ、いやじゃ、、、」
と駄々をこねはじめたのだ。
「さっちゃんっ、そんな事を言っている場合じゃないぞ」
父親である、真一はさっちゃんを叱りつけたが、それでも今度は柱をつかんではなそうとしなかった。
そうこうしているうちに、その音を聞いた近所の人がやってきた。
「どうしたんだべ・・こりゃ大変じゃ」
太平爺さんも、さっちゃんが冷や汗を出して、ひっくりかえっていたので、びっくりして、そこへペタッと座ってしまった。しばらくすると救急車がやってきた。しかし、さっちゃんは、今度は柱につかまって動こうとさえしない。
救急車が止まった音になんだろうと人がゾロゾロとやってくる。まるで見せ物である。
「さっちゃん、さっちゃん。お願いだから起きてちゃんとして」
潮里は動揺で泣いて叫んでいる。潮里の母親はさっちゃんを抱き抱えるようにして、
「さっちゃん、お願い・・・みんなさっちゃんが好きなのよ。さっちゃんに何かあったら、みんな悲しいのよ。お願いだから病院行こ?」
それでも、さっちゃんは柱につかまったまま、泣き始めた。
「いやじゃあ、いやじゃあ。病院だけはいやじゃあ」
「ね、どこが悪いかみてもらうだけなのよ」
「いやじゃあ、いやじゃあ」
さっちゃんはそれでも動こうとしない。救急隊員の人は、とりあえず待ちぼうけという形になってしまった。それでも何かしなきゃと、救急隊員のひとりがやってきた。
「ばあちゃん、みんな心配してるよ。どこが痛いのかまず言ってごらん」
「いやじゃあ、いやじゃあ、どこも痛くない」
さっちゃんはそう言い切ると、涙を拭いて、立ち上がろうとした。ドターン。さっちゃんはそのまま意識を失ってしまった。
「ここは・・・」
さっちゃんが意識を戻すと、あたりを見回してみた。記憶にない風景がそこにある。みんなの心配そうな顔、白い壁、白いベッド・・・それは、さっちゃんにとって天国にすら見えた。現実にありえないことで、自分はもうあの世へ逝ってしまったんだと思っていた。だが、すぐさま、自分につけられた管や点滴に気がついた。・・・窓越しからそよ風が吹いてくると、現実を知ってしまったかのようにさっちゃんは泣き始めた。
「わしゃ、嫌じゃ、帰りたい、帰りたい」
「さっちゃん、痛いの痛いのとんでけしたげるから、すぐ治って帰れるよ。今日帰れなかったら、潮里が一緒に泊まってあげるね」
「帰りたい、病院なんていとうない。あじさいの花道もまだ歩いていない」
「さっちゃん、大丈夫だよ。すぐ治るよ。あじさいは咲いたら、潮里がとってきてあげるね」
潮里が一生懸命励ます。
「潮里との運動会だってこれからじゃ・・・」
「ビデオ見せてあげるね」
「ほたるはもう飛んできたんか」
「さっちゃん、まだほたる来てないよ。治るよ。帰れるよ。」
「帰りたい」
「さっちゃんなんで泣くの?泣くのは赤ちゃんでしょ。潮里はもう五才のお姉ちゃんだから泣かないよ」
「嫌じゃ、わしゃ嫌じゃ」
「さっちゃん、どこが痛いの。足が痛かったらいつもみたいに踏んであげるね。痛いところあったらいいこいいこしてあげる」
「ああ、ありがと、でも、帰りたいんじゃ」
保育園児の年長と言えど女の子だからしっかりしている。さっちゃんはいつも潮里の話相手でいただけに、潮里もきちんとさっちゃんと対等に話しができた。
時すでに遅かった。検査をしたところ、胃がんの末期であちこち転移もしていた。残すところ一ケ月が山だそうだ。医者もよくこれだけ、我慢できたもんだと感心していた。さっちゃんの気丈さは悲しい結末を呼んでしまったのだ。
「さっちゃん、おうちに帰れるのよ。あと、ひとつ点滴済んだらね」
潮里の母、恵美子が涙をこらえながら、言った。
「そうけ、そうけ・・・」
さっちゃんは無邪気に喜んだ。
医者も手の施しようがない。だとすると、最期は自宅で迎えさせてあげたかった。これだけ帰りたいと願っているさっちゃんの気持ちは痛いほど感じていた。その選択も家族にとってはつらいものだったが、それは家族がさっちゃん対する精一杯の愛情だった。
さっちゃんの医者嫌いは昔からだった。風邪ひとつひいた事もなく、元気で過ごしてきた。風邪には、どんな薬よりも、例えばどんな治療薬よりも、大根おろしやショウガのすり下ろしたのをお湯に入れて飲んだりする事で治ってしまっていた。あとは、さっちゃんの気の持ちようだったのだ。
だが、昔骨折をして入院をした時、仲良くなる人が、次々に死んでゆくのを目の当たりにしてしまった。毎日、心の中で泣いた。次は誰なんだろうって。それから医者嫌いになってしまったのだ。さっちゃんがその人達を守れるわけではないが、とにかく悲しかった。つらかった。たくさん友達もでき、入院生活もまんざらじゃないと思っていただけに、その心のキズは深かった。
そして、嫁の幸恵は五年前に乳がんで亡くなり、その翌年父の重之も、事故であとを追うように亡くなった。それだけに病院に対する失望や苛立ちを持っていたのだ。
さっちゃんは自宅へ戻るとすぐに自分の部屋のベッドに寝かされた。しかし、さっちゃんは、着物を着ると、外へ出たがった。
「さっちゃん、何してるの?」
「ああ、一服しようと思ってな。病院じゃ煙草も吸えんから・・・」
「わかりました。じゃあ、一緒に縁側行きましょう」
「ああ、悪いなあ」
「そんなことないです。私はさっちゃんのお世話ができてとても嬉しいですから」
「幸恵さんが生きておったらなぁ」
幸恵とは慎一の母で恵美子からしてみれば義理の母である。既に他界しており、今この家での生活は慎一、恵美子、潮里、そしてさっちゃんだけである。
恵美子はそっとさっちゃんに手をかけると、縁側へゆっくり歩いていった。その姿を見つけるかのように、太平爺さんと一恵おばさんがやってきた。
「歩けるべ、良かった良かった」
「どうも、ご心配おかけいたしまして」
「さっちゃん、さっきはばのりもらってきたのよ。お粥に入れて食べてみてよ」
「いつもありがとうございます。早速お粥作ってきましょう。丁度お昼だから、みんなで食べましょう。太平爺さんも一恵さんもご一緒に」
恵美子がそのはばのりを手にとると、台所へと支度しに行った。
しばらくすると、お粥ができあがってきた。その横に、奥の物置から持ってきた七輪を置くと、さっきのはばのりをその上にのせた。はばのりは、真冬の荒磯の波打際につく天然の紅藻類の岩海苔で、近くの海岸で採れるのだ。それを天日で干し、ノリ状にしたあと火であぶり、手でもんでご飯にのせて食べる。香りから味わえるたっぷりの磯の味である。ちょっと高価だが、町のあちらこちらで干しているのを見つけると、1枚2枚とお裾分けしてもらってくる。
さっちゃんはそれを軽く焼いてから手でもんでお粥の上にのせ、たんまりとかつをぶしをかけた。歯ごたえも充分である。もちろん、歯のないお年寄りにはあぶったままではさすがに食べられないので、お粥にしめらすことで、ほとほと柔らかく食べられる。
「本当に、磯の味だべ」
「そうじゃ」
「この磯の香りは、忘れられんな。なぁ、わしゃ、海に葬られたい・・・」
さっちゃんがポツリと言った。
「何、言っとるんだべ」
太平爺さんも、そんな気弱なさっちゃんを怒るようにして言うと、さっちゃんは涙を流しながら話はじめた。
「わしゃ、あの世にいっても自由がいいんじゃ。だから海の広いところがいいんじゃ。海からみんなを見守ってるんじゃ。潮里は大きくなったやろうか。町の様子は変わっておらんのか。わしゃの歩いた道や川や山や、みんなそのままにしていってくれるんか。きれいな花や鳥もみんなそのままにしていってくれるんか・・・わしゃ、ずっとこの海から見てたいんじゃ」
「・・・・・」
「ほたるの里って知っとるか。ここいらのことを言うんじゃそうじゃ。なんでか知っとるか。ここいらがきれいだからじゃ。川の水が澄んでいるからじゃ。今の世の中はごみだらけじゃ。でも、ここは清流の流れる川なんじゃ」
「・・・・・」
「そりゃ、町中行ったらわからん。でも春になったら蝶々やほたるがやってきて、夏になったら、カブト虫やくわがたが飛んでくるんじゃ。そいで秋になれば鈴虫。みんな清流のおかげじゃ。その側にそびえたつ木々に鳥や昆虫がやってくる。きっとここは昆虫たちの古里なんじゃ」
「・・・・・」
「わしゃあの世へ逝ったときにゃ、例えば木が一本倒されたら、ほたるに言ってやろう。もうここへ来んでいいと。ごみが川や海にへ投げられたらまた言ってやろう。もうここへ来んでいいと。わしゃ、海からそれを眺めておる」
太平爺さんもうっすら涙を浮かべていた。一恵おばさんも、隣で泣いていた。
「一恵さん、泣かんでいいよ。わしゃ一番ばあさんじゃ。これは順番なんじゃ。わしゃより先にまたあの子達が逝っちまったら、わしゃ死んでも死にきれねぇ。息子が四年前に死んだとき、わしゃも逝っちまった方が良かったんじゃ」
「そんな、誰が死ぬんですか?そんな決めつけないでください」
「そうじゃね、誰が死ぬんじゃろうね。きっと、明日の事は誰にもわからんよって」
恵美子は側でそれを聞いていた。さっきまで堪えていた涙が一気にあふれ出した。
「さっちゃん・・・」
「わしゃ、何があっても起ころうとも、介護だけはしてもらいたくねぇ。みんなに世話かけるのいやじゃ。なあ、そうやろ。太平さん」
「そうさなぁ・・・」
恵美子は崩れるようにして、声をころして泣き続けた。
それから何日かたった晴天の日曜日。朝から立て続けに花火がなっている。今日はシルバースポーツ大会である。
潮里の家でも、潮里が出場するとあって、恵美子もお弁当づくりに精を出していた。
「さっちゃん、こんな味でいいかしら」
今日も早速ウズワのおむすびである。だが、さっちゃんは椅子に腰かけたまま、恵美子のそれをじっと見ている。さすがに、おむすびをこしらえることは困難だった。だから代わりに潮里の母の恵美子がそのおむすびを作っている。
「ああ、おいしいよ。ありがとさん」
さっちゃんは、そのウズワのおむすびの味見をしながら、うっすら涙を浮かべていた。「もう、わしゃ、出る番ないじゃ」そっと、つぶやいた。
お弁当の支度が済むと、さっちゃんは、借りてきた車椅子に乗り、潮里に押されながら、海浜公園に歩いていった。時折、波のしぶきがかかるように、飛んでくる。潮里の父も母もその後からゆっくりついてくる。
「潮里、拝んでこうか」
「うん」
地下道の手前にくると神社へ立ち寄った。潮里はさっちゃんから十円をもらうと神社の境内へ入っていった。潮里の父も母も一緒に入った。みんなそれぞれの思いは同じである。\さっちゃんが早く元気になりますように\
しばらくじっとしていた。誰も何も話すことなく、しばらく拝んだままの姿勢でだまってうつむいていた。
ザザーンという波の音と共に、潮風があたり一面に吹いてきた。電線に止まったすずめも何十匹と一斉に飛び立っていく。
「潮里は、この潮の香りわかるか」
「わかるよ、とってもしょっぱいにおいがするよ」
「おまえの父さんはわからないじゃよ。生まれたときからここにいるから、潮の香りを忘れちまった」
「なんかさ、わかめのにおいだよね。このにおい」
「そうじゃね。わしゃ、この潮の香りは大好きじゃ」
「ホント?じゃあ、潮里も大好きになるね。だって、大好きなさっちゃんの大好きな香りだもん」
「潮里、初めてあの公園きたの覚えているんか。まだ、母ちゃんのおっぱい吸っておった。父さんとイカ釣りに来たんじゃよ。本当に、潮里も大きくなったなぁ」
「潮里もいってみたいな。イカ釣り。ねぇ、お父さん、連れて行ってね。イカ釣り」
潮里は後ろを振り向くようにして言った。
「まだまだ行けるじゃろ、これからだ。潮里は」
「そうだね、これからだね」
会場に着くと、結構人も来ていた。老人ホームのバスも何度か行き来している。
たくさんのテントも張ってある。きれいに整備された芝生の上には、シートをしいて、座ったり、寝ころんだり、椅子を持ってきては腰掛けていたりしている。桜の花も全て散った後で、木々はきらめくように青々としていた。
敷地内の公園では、小さな子ども達が滑り台などで走り回って遊んでいるのも伺える。
「賑やかじゃ」
「じゃあ、さっちゃん、後でね」
潮里は保育園児の集合場所へと消えていった。
ミッキーマウスの曲と一緒に潮里たちが行進してきた。
「ほら、さっちゃん、あそこ、潮里ですよ」
「そうけ、潮里も立派になった」
「そうだ、潮里もああやって頑張ってる。さっちゃんも頑張れ。さっちゃんは幸せだぞ。みんなに慕われて、みんなが寄ってきて」
真一も、今日は娘の晴れ姿と思って、ビデオ片手に駆けつけている。
「そうじゃな。わしゃ幸せもんじゃ。死んだらきっと、わしゃのお別れにいっぱい来るんやろうか。いっぱいいっぱい来るんやろうか」
「何言ってる、みんな最後は死ぬんだ。でも、今はそんな話しちゃいけない。だが、きっと、さっちゃんを惜しんで大勢集まってくるだろう。人間は死んだらその人の価値がわかる。きっと、さっちゃんはたくさんの花と人に囲まれるだろう」
「そうやね、ありがとさん」
さっちゃんは、うっすらと浮かべた涙をふくと、潮里に向かって満足げに手を振って見せた。
「あっ、さっちゃんだ。さっちゃんだ」
保育園児達も行進しながら、さっちゃんに向かって、大きく手を振って返した。
すぐに踊りがはじまった。潮里たちは、フラワーという曲にのせて、おじいさんおばあさんたちに踊りを披露している。あちらこちらから笑い声が聞こえた。
「ホント、かわいいですね」
小さな手で旗を握りしめ、精一杯踊って見せた。この日の為に何ヶ月も前から練習を重ねている。踊りが終わると一斉に拍手が飛び散った。
「どうだった?」
「上手だったよ。輝いてた」
「ほら、ごらんの通り」
潮里は無邪気に挨拶して見せた。
「ねぇ、さっちゃん、一緒に走ろうよ。後でね、玉転がしするんだって。潮里はさっちゃんと一緒に走りたい」
「さっちゃんは、無理よ」
恵美子が言う。
「やだよ〜潮里はさっちゃんと走りたいの〜」
「よし、じゃあ、父さんがさっちゃんの手を引いてやる」
「ホント?お父さん、ありがとう」
それからさっちゃんはゆっくりと車椅子から立ち上がり、真一に支えられながらよっこらよっこら歩きはじめた。
「ヨーイ、ドン!」
ピストルの音があたりに鳴り響いた。
「がんばれ〜がんばれ〜」
「赤勝て、赤勝て」
「白負けるな、白負けるな」
声援が起こる。
子どもたちとおじいさん、おばあさんとの玉ころがし競争である。時々足をからませて転んでいる人もいる。それでも幼い子どもたちとの走りは一層元気で頑張るぞという輝きさえ見せていた。
さっちゃんと潮里の番になった。走りはじめるとすぐにさっちゃんコールがはじまった。
「あっ、さっちゃんだ〜。頑張れ」
「おお、頑張れ、頑張れ」
「さっちゃん〜さっちゃん〜」
ゆっくりゆっくり、それでも一生懸命走っていた。潮里も一緒に玉を転がし、その側で真一も一緒に走った。
五十メートルもないだろう距離はとても長く感じた。大きな玉はふたりの呼吸を乱すかのように、あっちへいき、こっちへ行き来している。
「頑張れ、頑張れ、さっちゃん頑張れ〜」
三人がゴールするとたちまち拍手が起きた。さっちゃんはそのままペタンとそこへ座り、フーフー息をしている。
「よく走ったなぁ」
真一も、じとっとした汗が流れている。
「ああ、よかーよかー」
さっちゃんは、ひたすら微笑むように笑っていた。
「さぁ、お昼にしよう」
丁度昼休みになった。さっちゃんたちはテントの下でお弁当を広げた。
「うわぁ、おいしそう」
潮里が早く早くと手を差し出す。
「さあ、今日は私が作ったのよ」
出されたウズワのおむすびは、本当にさっちゃんの味と一緒だった。
「おかあさんも、作れるの?さっちゃんと同じおむすび」
「おお、ホントだ。うまいうまい」
「心がこもってるんじゃ。恵美子さんの心が」
「やだわ、さっちゃんが味見してくれてるおかげですよ。私なんて、まだまだひとりじゃ何もできないですよ」
「もう、わしゃ恵美子さんに教えるもんも何もない。もう、このおむすびで終わりじゃ」
「さっちゃん、また始まったのか。以外と気弱なんだからな」
「もう、わしゃ先が知れてる、いつどうなるんだか・・・」
「おむすびもう一個ちょうだい。ほら早く食べないとなくなっちゃうよ。今日のおむすびは、とってもおいしいんだから。あっ、太平爺さんにもあげなきゃ。」
潮里がそう言うと、今まで暗くなりかけた雰囲気はすぐにかわった。それからは無我夢中でそのおむすびを食べ始めた。
その帰りの事である。一家で湯河原温泉奥地にある「足湯」へと向かった。その足湯は風水によって構成されていて、更にツボの刺激で内臓をはじめとする各疾患にとてもいい効果があるそうだ。
「こんなのできたんか」
あたり一面、ほんのりと湯煙が漂い、多くの客が笑いながら足湯に浸かっている。のんびりと寝ころび、くつろぐ人達もいる。森林に囲まれ、呼吸をすると清らかな空気が口の中いっぱいに拡がるのがわかる。近くには川も流れ、ザアザアと気持ちの良い音をたてている。時折、野鳥が挨拶するかのように飛んでいく。
「足の裏の刺激は昔から良いんじゃ。こんなん早くできてたら、わしゃの足も治っとったのに」
さっちゃんの足をリハビリ治療して何とか歩けるようになるまで、約半年かかった。それでもまだ時々痛みもあり、普通に走ったりなどとてもじゃないが出来ない。それに長い間歩くこともできない。
さっちゃんたちは、すべらないようにとゆっくり歩きながらそこへ入った。
「ああ、なんて気持ちがいいんじゃ」
「やーよ。私くすぐったい。きゃっ、きゃっ」
「そーね、潮里にはくすぐったいかしら」
気泡がボコボコ音をたてている。足の裏にくるツボへの刺激はなんとなく痛いほど感じる。足だけなのに汗が出てくるほどだ。何カ所か入っているうち、足全体がとても軽くなっていくのを感じる。
「世の中、生きていて、楽しいことはまだまだあるんじゃ」
「何言ってるの、さっちゃん。まだまだ楽しみはいっぱいですよ。もうすぐ潮里も小学生になるし、そうなったら今度は七五三ですよ。また、さっちゃんに着物を見立ててもらわなきゃ困るんですよ」
「そうけ、もう七五三け。七つになるんか。早いね」
「来年ですよ。すぐですよ」
「潮里は色が小麦だから、みかん色や木の緑色が似合うんじゃ」
「じゃあ、みかん色にしよう」
「じゃ、さっちゃんも頑張らなきゃいけないな。早く元気になって、これからも楽しいことあるぞ。まだまだ」
「そうじゃ」
「よおし、今度の休みはオレンジラインのあじさいを見に行こう。もう、いっぱい咲いているぞ。それからさつきの郷だ。きっとそろそろ花も色づき始める頃だろう。さつきの色はさっちゃんの好きな紫がたくさんあるそうだよ」
「本当じゃ。まだまだ楽しみたくさんあるんじゃな」
潮里は、ずっと浸かっている事に飽きたのか、あっちへ行きこっちへ行き落ち着いて座っていない。冷たい水の場所を見つけると、プールにでも入っているかのように、バシャバシャはじめた。
「潮里、滑るからこっちで座ってて」
「はあい」
夕方になった。時折涼しげな風が吹いてくる。窓越しから、庭に植えてある菖蒲のまわりにほたるが飛んでいるのが見えた。
「潮里。ほたる見に行こうか」
「うん、じゃあ、車いす持ってくるね。おかあさんにも言ってくる」
夕方に雨が少し降ったせいか、あちらこちらの家に植えられたあじさいがきらめくように咲いている。少し霧がかかったあたり一面はとても幻想的だ。
潮里は裏へ行くと、かりている車イスを押してきた。さっちゃんの家から十メートルも行くと、新崎川が流れている。そこで、五月の終わり頃からほたるが見え始める。
「さっちゃん、ほら、いっぱい飛んでるよ」
「ああ、本当だ」
「いち、にい、さん・・・ねぇ、数え切れないくらい飛んでいるよ」
「ああ、本当じゃ。それだけここがきれいなんじゃ。澄んでいるんじゃ」
さっちゃんと潮里はゆっくりとまわりの景色を楽しむかのようにその川へ行った。潮里はさっちゃんが動かないように車椅子の固定すると、ほたるの歌を歌いはじめた。
「ホ、ホ、ほたるこい
あっちの水はにがいぞ
こっちの水は甘いぞ
ホ、ホ、ほたるこい」
潮里はそこで歌いながら踊って見せた。あたりは一面星が降ってくるようだった。いくつものいくつもの星が点滅して、そよそよと流れる川の音はなんとなく天の川を想像させた。
「ねぇ、なんだか、今日は七夕みたいだね」
「そうだね、潮里・・・」
「寒くない?」
「ああ、大丈夫」
「ホ、ホ、ほたるこい
あっちの水はにがいぞ
こっちの水は甘いぞ
ホ、ホ、ほたるこい」
潮里は歌いながら、ちょっと川辺へ降りてみた。上から眺める景色と下へ降りて見る景色はまた違う。間近で見る川辺に飛ぶほたるはなおさら輝きが増して見えた。
「気いつけな」
「はあい」
「ねぇ、さっちゃん。」
下へ降りた潮里は大きな声で叫んだ。
「あのほたるさんは泳いでいるみたいで、きれいだよ。なんだか、いつもちびっこ広場でやっている花火みたい」
「本当じゃ。花火みたいじゃ」
さっちゃんは頷いて言った。潮里はまた、歌いはじめた。川ぞいの道をぴょんぴょん跳ねながら、歌いはじめる。
「ホ、ホ、ほたるこい
あっちの水はにがいぞ
こっちの水は甘いぞ
ホ、ホ、ほたるこい」
潮里は手を川の方へ差し出してみた。すると、一頭のほたるが潮里の手のひらに止まった。
「さっちゃん、見て、ほら、潮里の手の上にほたるがとまったよ」
「ああ、きれいだね・・・」
「見て、光っているよ。オスかな。メスかな。ほたるは好きな人を捜しているよって光って教えるんだって」
「ああ・・・そうだね・・・」
「ほたるさん、もっともっと光ってごらん」
「・・・・・・・」
「あっ、いっちゃった」
ほたるは一層輝きを増したかに見えたが、また潮里の手のひらの上から離れて飛んでいった。
「さっちゃん、さっちゃん、ほたる飛んでいっちゃったよ。ほたるさん、おいで」
「・・・・・」
「ほたるさん、こっちへおいで」
「・・・・・」
「ホ、ホ、ほたるこい
あっちの水はにがいぞ
こっちの水は甘いぞ
ホ、ホ、ほたるこい」
さっちゃんはそのまますーっと眠るかのように息を引き取った。その顔はとても満足気で微笑んでいるかのように見えた。
その数日後、さっちゃんは願い通りに海に葬られた。みんながさっちゃんの死を惜しんだ。
砂浜にはまだたくさんの花が置かれている。たくさんの人々のさっちゃんへの気持ちだ。八月には灯籠流しがある。きっと、その度にさっちゃんを惜しんで泣くことだろう。
波は静かに静かに流れている。まるでさっちゃんが葬られたのは嘘のようだった。たくさんのカモメが飛んでいく。
たった、一羽のカモメだけが身動きしないでいた。あれはさっちゃんなんだろう。ずっとこっちを見ている。きっと、みんなを見守っているんだろう。この町を見ているんだろう。
この自然が守られていく美しい町を・・・
ほたるが飛び交う澄んだこの町を・・・
終わり