チーム誕生物語

2002年9月13日、キッカーズが誕生した。鍛冶屋会館での決意式では、監督に「お願いします」と全員が頭を下げた。そこに至るまでは、さまざまなドラマがあった。

グランドを去った監督を慕い、数十人の子ども達も後を追うように次々と少年団を退部した。数日後、監督の家まで押しかけ、指導の依頼を幾度となくお願いした。なかなか承諾はもらえず「ゴルフだけでいい。サッカーはやらん」と言い切った監督を説得するまでに数日、親も子もみんな涙、涙の毎日。子ども達の「サッカーがしたい」気持ちと裏腹に、サッカーをする場所もなく、ただ途方にくれた。

そうこうして何度か通いつめた後、承諾を得られたが、まだ先の不安は残るばかり。「いったいどこでサッカーをしたらいい?」

そこで集まったのが、熱海市泉にある「泉公園」だった。もちろん、公園なのでサッカーゴールなどあるわけがなく、狭さの中でひたすらボールを追い続けた。坂も多く走り続けたその先はただしんどかった。公園に遊びに来ている小さな子ども達の親にもけむたがられたこともあったりした。

でも、子ども達はやっとサッカーができるんだぞという楽しさが、ここで気持ちがひとつになったようだ。そして九月十六日、チーム名が決まった。フランス語辞典や、英和辞典を片手にいろいろ考えたあげく、子ども達は最も親しみやすい「キッカーズ」という言葉に共鳴した。

「湘南キッカーズにしよう」

「FCつけるとかっこいいかな?」

でも実際は、FCとは、フットボールクラブの略語なのだ。親しみやすさでこの名に決まった。

グランドでサッカーをするようになったのは、十月半ばから。きっと、この広々としたグランドで思い切り走れたのは本当にみんな嬉しかったことだろう。

それから10月18日のゆめ公園でのナイターでの練習試合(対四恩職業訓練所社会人チーム)、11月には熱海で初デビュー戦を繰り広げられた。

この熱海での試合は、グランドの広さに圧倒された。ぼろぼろに負け、くやしかった。誰も活き活きとプレーができるどころか、練習不足とまだチームのまとまりのない状態に憤りを感じた。

それから猛烈な練習がはじまった。来る日も来る日も練習練習。でも、練習ばかりで先が見えない状態に不安もあった。「子どもたちの目標は?」「試合に勝つこと?」「でも、それはいったい何のいつの試合?」

グランドを確保し練習をできるようになったものの、先は見えなかった。「リーグ戦で優勝を目指そう!!」それしか言えなかった。「でも、出れるの?」幾度となく、小田原サッカー協会と連絡をとり、出場もお願いしたが、承諾はなかった。気持ちはあせるばかりで、子ども達の気持ちも「ただサッカーをやっている」に過ぎない日々が続いた。そして飛び込んできたのが、翌年のTADOカップ。今までの思いが吹っ切れたように、勝利を目指し練習した。ホームユニフォームも完成し、結果は三位。万々歳だ。

その後はHPの成果もではじめ、アクセスしてくるチームもあったようで、練習試合等設けることができた。その中でも「西伊豆FC」さんは2003年の春の合宿、夏の合宿を共にできたチームである。お互いにない所を補いながら、共に情報交換をし、応援をしてきた。2004年中央大会への出場は、HP上でもしっかり応援してくれた。影ながらの支えだ。

それからサッカー教室を行いながら、口コミもあり徐々に子ども達が増え、コーチも増えた。いつも縦のつながりを大事にするキッカーズのその姿勢は、ある意味ではごちゃごちゃのまとまりがないとしか見えないが、実際は子どもも大人も楽しんでやっている。その楽しさが明るさがキッカーズを支えてくれているような気もする。

夏になり、やっさまつりと同時に団幕も完成。Run Run Run走れ!!走れ!!楽しくサッカーをの気持ちの団幕だ。

更には湘南カップ、合宿と大きなイベントも無事にこなし、厳しい夏休み練習の終わる頃には皆が逞しく成長した。

その後は「県大会」を目標に走り続けてきた。冬休みも子ども達はグランドに通い、汗を流した。

そして県大会を向かえた。6年生にとっては最後の大きな大会で、もう後にはないことを察しながら、今までの思いをボールに託した。ナイターの練習も頑張った。練習量は一番多いチームかも知れないほど。

1日目キックオフ、ディフェンスの守りの堅さを見せ順調に勝ち進んだ。帰宅してからもグランドへ戻って練習した。そして2日目。彼らは勝ちたい思いに溢れていた。

一試合目、何とか横浜SCを1―0で下すと自信がついたように落ち着いた彼ら。そして最終戦、フットワークとの戦いは、これが小学生の戦い方?を思わせるほど、その戦いぶりは本当にねばり強く、相手にとってはどんなにくやしいだろう可哀想だろうという動きを見せた。後半、キャプテンあきが「中央大会へ行こう!!」と口走った。皆の思いはひとつになり、更に終了間際の大輔が見せた押しの一点はきっと忘れることができないだろう。四試合続けて無失点という凄さは、厳しい練習を耐え抜き監督・コーチに信じてついてきた証だ。

その後監督からありがとうの握手をされた子ども達は照れながらも嬉しそうに笑っていた。

湯河原に戻ると、私用で来れなかった野田コーチは吉浜小の校門の上に立ち、激励した。そして、他の学年の保護者もみんな駆けつけてくれた。ビール、ジュースで乾杯し、いつまでもこの気持ちにふれていたい程だ。

それからキッカーズは変わった。中央大会出場という結果は世の中にも知れ渡るようになった。今まで目にも止めてくれなかったチームが、キッカーズに対して振り向いた。それだけこの大会に勝ち進むという価値は大きかった。

「終わり良ければ全て良し」波瀾万丈の六年間だっただけに、この感動と勝利は彼らにとっていつまでも思いにふけってくれることだろう。

中央大会では茅ヶ崎の選抜チーム(東海岸蹴球倶楽部)をPK戦で破り、二回戦へ進むことができた。この一勝の瞬間は、感動以外の何ものでもない。他学年の親でさえ涙溢れんばかりの緊張と感動だった。

二回戦で、横浜マリノス追浜と戦うことが出来た。相手にしてみれば「無名のチームに何故三点しかとれない」と悔しがっていたそうだが、なかなか戦うことの出来ない相手と戦って、みんな本当にいい思い出が出来たはずだ。

たくさんの感動があった。悲しかった時も辛かった時もなんとか無事に乗り切って六年の最後を向かえる。感動があるから頑張れる、共に助け合ってくれる人がいるから頑張れる、それがキッカーズの本質になっていけばいいと感じる。

2002年、日本がワールドカップを自力で手にした瞬間は今でも記憶に新しいと思う。全国の何万、何億という人々が、ゴールが決まらなければ頭をかかげ、決まれば立ち上がり隣の人と抱き合って泣いて喜んだ。それがサッカーの感動と興奮。それは子ども達の試合の中に言えることなのだ。

是非、子ども達がサッカーを好きなら、背中を押してあげてほしい。辛いときは一緒に泣かないで、「それはおまえが頑張る子だから、きっといい選手になる子だから叱るんだよ。頑張れ」って押してあげてほしい。

お母さん、お父さんは後からでもいい。是非押して励まして練習に来させてあげてほしい。そして時に、グランドの姿を見てあげてほしい。しばらく見ないうちにきっとびっくりする位の成長していると思う。

キッカーズを立ち上げた時、何が自分たちでやってあげられるのかを考えた。これだったら私にも出来るという事から無理をしない姿勢で今までやってきた。仕事をしている方も多く忙しく一緒に参加できなくても、お互いが自然にフォローをすることに徹した。だから決して強制はしない、それをすることにより子ども達がせっかくサッカーが好きでも諦めることになってしまう、それが一番悲しいこと。サッカーをいつでも好きでいるために、つくってあげられる環境をなんとか作っていきたい。それがキッカーズの始まりで原点なのだ。

お金がなければ、ないなりに。人がいなければいないなりに。どうしてもこれでなくてはいけないという事はないだろうから、時代にあわせてその人達がつくりあげていけばいいと思う。ただ守って欲しいのは、こういったきっかけがあってチーム名ができユニフォームができ、このチームができたこと、是非忘れないでいてほしい。

最後に、私達が築き上げたキッカーズを更に支えてくれた子ども達、そしてコーチ、監督はじめ保護者の方々、本当にありがとうございます。感謝します。


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